「おかしい」ことなんてない。多様性ある地域社会へ、市民活動の草分けを。まちつくインタビューvol 28.渡辺美恵子さん

更新日:2025年07月15日

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栃木県真岡市で、まちづくりに取り組む方々の想いを伺うインタビュー!今回取材したのは、健康・介護・子育てなどの相談ができる「まちなか保健室」田町館の室長、渡辺美恵子さんです。障害を持つ次女を育てる中で、さまざまな地域活動に取り組み道を切り拓いてきた渡辺さん。これまでの道のりや、活動への想いを伺いました。

渡辺 美恵子(わたなべ みえこ)|まちなか保健室田町館 室長
真岡市田町に二人姉妹の長女として生まれる。幼い頃に父が他界し、煎餅屋、団子屋を営む母に育てられた。真岡女子高校卒業後は家業を継ぎ、夫とともに飲食店「みどりや」を経営。娘に障害があったことから、障害のある子を持つ親の会を立ち上げ。現在は室長のほか、飛山の里福祉会評議員、NPO法人ま・わ・た理事、真岡市観光コンシェルジュ、地域福祉推進委員、食品衛生協会衛生指導員、民生委員児童委員なども務める。日本舞踊坂東流の名取でもある。

まちなか保健室から地域を元気に

-今のご活動について教えてください。
 
まちなか保健室田町館の室長を9年前から務めています。まちなか保健室は、誰でも健康・介護・子育てなどの相談ができる場所。でも、コロナ後は人の出入りが少なくなってしまいました。そこで、楽しいことは心の栄養と考えて、「心の健康事業」と題していろいろな自主企画をやっています。新聞バック作りや歌声喫茶、将棋教室や健康麻雀、スマホ相談会などなど。毎週日曜に加え、隔週で火曜、土曜も開いています。

▲大学生、高校生がスマホの使い方を教える「スマホ相談会」の様子

はじめは「室長なんて大役、なんで私のところに来るの」と思ったけれど、今思えばとても良い役をもらったなって。真岡に生まれ育って地域を大切に思っていますから、地域に根ざした活動をしたいという気持ちがあります。
 
企画のコンセプトは「人は誰も同じ」ということ。例えば、障害のある方が講師として教えてくれることもあります。障害に対する地域の皆さんの理解を深めるためにも、障害のあるなしに関わらず教える側にもなってもらって、楽しく活動しています。
 
私には娘が二人いて、下の子に知的障害がありました。44歳で亡くなってしまったのですが、この子がいたから良い人生を送れたと思っています。障害者活動を中心に市民活動に取り組んできて、今は障害者施設を多数運営する社会福祉法人飛山の里福祉会の評議員や、そらまめ食堂などを運営するNPO法人ま・わ・たの理事などを務めています。生まれも育ちも真岡なので、門前地区担当として地域を案内する観光コンシェルジュをしたり、地域福祉推進委員として田町地区でミニデイ事業を行ったり…75歳で引退しましたが、坂東流の名取「坂東路之輔」として日本舞踊も教えていました。とにかくいろいろ活動しています(笑)。

▲観光コンシェルジュとしてまちを案内する渡辺さん。着物は真岡木綿!

障害への理解を広げる、市民活動の種を蒔いた

-渡辺さんが地域活動に関わるようになったきっかけは?
 
次女のことがきっかけです。知的障害があって、さまざまな理由で言葉の出づらい子を指導する「ことばの教室」に通っていました。保育園に入った3,4歳から通い始めたのですが、個別に指導を受ける機会はあっても親同士が交流する機会はありませんでした。それで、学校の先生と夫の仲がよかったこともあって親の会を立ち上げ、11年くらい会長をしていました。
 
当時は、「障害は親の教育が悪い」と何度も言われたんですよ。そうじゃないから手帳をもらっているのにね。障害に対する理解を深めるためにも、義務教育が終わった後も地域での活動を続けました。
 
ただ、会は段々と仲良しグループになってきて、親を知らない人とはつながりたくない、という雰囲気に。私は親がいてもいなくても、協力してもしなくても、障害を持つ人たちがつながって地域で活動したいと考えていました。そこで、新たにNPO法人を立ち上げ、ボランティア団体「障害者の社会参加を推進する会なずなの会」として活動を始めました。
 
まだ市民活動という言葉自体がなかった時代です。「障害者は人様に面倒を見てもらう立場なんだから」と、私たちがボランティア団体であることを批判する声もありました。でも、ボランティアにする側もされる側もないですし、私たちだって障害のある人にしてもらっていること、楽しませてもらっていることもある。相互性があるんだよと悔しく思いました。
 
それでも団体は成長し、事業家の方や賛助会員の支援もあり、やがて160人ほどの大所帯になりました。そうすると、いろいろな視点から意見が出てきます。賛助会員を無くしましょう、外部の人を入れるのはやめましょう、と言われるように。でも資金は必要ですし、「若者、馬鹿者、よそ者」とよく言われるように、外部の血を入れていくことも大切です。そういう私の考えを伝えても、自分の子どもと精一杯向き合っているお母さんたちには響かなくて。胸が痛くなってしまい、最後は団体をやめることにしました。辛いこともありましたが、そうやって地域にたくさん種を蒔いてきたんです。
 
その後、私の持っている敷地で福祉サービスを提供するそらまめ食堂がスタート。今では大きく育って、先日新たな敷地に移転し、巣立っていきました。市の複合交流拠点monacaにカフェもオープンさせ、光っていますよね。私も市の地域福祉計画策定委員に入らせていただいて、震える手でマイクを持って「公的な場所に福祉の店を」とお話しさせていただきました。真岡がそんな街になったことは、自慢だなと思います。

女が働いて、何でおかしい?

-渡辺さんはすごい行動力をお持ちですよね。どうやって身についたのですか?
 
私は小学生に入る前に父を亡くしていて、母が女手一つで私と妹を育ててくれました。その姿を見てきたことが大きかったと思います。
 
普段は団子と煎餅を売っていてね、私の家の前は日本専売公社があったから、農家が葉タバコを収納しに来る時期だけ食堂をしていました。私が高校を卒業したら、許嫁と結婚して後を継ぐことは決まっていたんです。6つ年上の夫は若い頃からうちに来て商売を手伝い、私を学校に通わせてくれました。
 
思えば昔から、行動力はありました。ほとんど活動していなかった真岡女子高の演劇部を盛り上げ、卒業後も「劇団われもこう」を結成。夜の公民館で練習して市の体育館を借りて公演をしましたね。劇団での経験は日本舞踊への熱意につながり、子育てしながら坂東流の先生にお稽古をつけていただきました。31歳のとき「路之輔(みちのすけ)」という名前をいただき、真岡ではおそらく初めて、師匠・坂東三八路(みやみち)先生が主催する発表会の中で、本衣装をつけての名披露目会をさせていただきました。演目は日本舞踊の中でも最上級とされる獅子物の『春興鏡獅子』。自分にとって大きな節目になりました。

▲名取就任当時の写真。お稽古場だった部屋に今も飾られている

-当時は、女性が活動するのも珍しい時代だったのではないかと思います。
 
そうですね。私が結婚したのは21歳のときで、家業を継ぎ、母の名前を店名にとり飲食店「みどりや」として営業を始めました。その前後、青年団の集まりで、どんな人と結婚したいか、どんな家庭をつくりたいか話したことがありました。みんなが、「旦那さんに美味しいご飯を作れる女性になりたい」「子どもを良い子に育てたい」などと言う中で、私は「お婿さんになってくれる人が幸せになれるように、一生懸命働きます」と言ったんです。会場がざわついて、「なんか違うよ渡辺さん」「変じゃない?」と言われました。「うちはお母さんに働いてもらって学校行ったんだもん、 女が働いてなんでおかしい?」と言いましたけど、女性が働くのが当たり前の時代じゃなかったんですよね。
 
その後、男女共同参画に向けても活動してきました。県の事業で女性の海外研修団に参加し、オーストラリアやニュージーランドで女性の自立について学んだことも。個人的に県内外のさまざまな自治体へ視察にも行きました。市が市民活動推進センターを立ち上げる際、私も話し合いのメンバーになり、先進地でメモしたものを市に提供して活用してもらいました。その3年後くらいに今のコラボーレもおかができています。

「おかしい」と言われない地域社会へ

-ありがとうございます。今後やりたいことを教えてください。
 
以前のそらまめ食堂があった場所に、新しく障害者の就労支援などを行っている手仕事工房そらが飲食店をオープンさせました。その際、以前うちが商売をしていた場所だから、「みどりや」の屋号を使わせてほしいと相談してくれたのです。悩みましたが、ありがたい話だから使っていただくことにしました。
 
私はずっと、公的な施設に福祉の店をと活動してきました。でも、最近になって、実は母みどりが、あの時代にそれを実現していたことに気が付いたのです。母は夫を亡くして、地域の未亡人の会に所属していました。桜の時期は行屋川に売店を出して、売上を会の活動費にしていました。市役所の軒先に売店を構えていたこともあったんですよ。あの頃はわからなかったけれど、あれこそ福祉、さまざまな立場の人を支える支援でした。母は公的な場所に福祉の店を出した先駆けだったのです。
 
そんな母の名前をとった店は、煎餅屋と団子屋だった当時の名残を残してもらい、新しく「お餅 和カフェ みどりや」として営業しています。豊富な経験を持つ和食の料理人さんが、障害を持つ人たちのためになればと腕を奮ってくれています。大家として余計なことは言わないように気をつけながら、応援していきたいと思っています。
 
-渡辺さんから見た真岡はどんなまちですか?どんなまちになっていってほしいですか?
 
生まれ育って骨を埋めるまちですから、なんて言ったって良いまちにしたいですよねえ。
 
これからはお年寄りを大切に…と言いたいところだけど、そうじゃないんだよね。若い人たちのアイデアや生き方を尊重できるまち、若者の考えが政策まで届いて、イキイキ頑張れるまちにしてほしいと思います。
 
女性の社会参加が促されて、障害者が生きやすいまちには、私が言わなくたって、もうなっている。社会が変わってきているのを感じています。男でも女でも障害があってもなくても、人権が守られる状態であるといいですね。
 
-どうなると、人権が守られている状態になったと言えるでしょうか。
 
何をやったって「おかしい」と言われないことかな。人はみんな違うから、自分の視点から見たらおかしいかもしれないけれど、他の人が見たら「あら、素敵」となるかもしれない。
 
私は女が働いて変だよと言われたけれど、食べていくにはお店を頑張らなきゃいけないし、お父ちゃんを幸せにするために一生懸命働くし。私は今もふざけて夫を「この人、私の女房です」なんて言うんだけど、夫は掃除も洗濯も大好き。一方で私は掃除も洗濯もできない、ご飯炊きもできない。うちは飲食店だから、ご飯を作るのはお父ちゃんという係長がいます。レジにお金を入れるのが私の役目。男だから、女だからではなく、そういう風な役割なんです。
 
目が見えない次女は電車で間違えて人の膝に座ってしまったり、田んぼに落っこちて助けてもらったり、人様にたくさん迷惑もかけたけれど、そのおかげでたくさんの温かい心に触れることができたし、私は良い人生を与えてもらった。障害を持つ人が、人に何かをする側になることは、何もおかしくない。
 
「おかしい」と思うことも、裏を返すとおかしくない。障害も性別もみんな人それぞれだから、その人その人の多様性が認められる地域社会になると良いなと思います。

取材、文章、写真 : 粟村千愛(真岡市地域おこし協力隊)

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